所定労働時間が不足していても「成果を出していればいいじゃん」は、本当?

裁量労働制ではないことを前提に書きます。

例えば、1日8時間 x 20日で「160時間」が所定労働時間とした場合、その時間に不足があっても期待される「成果を出していればいいじゃん」となるのでしょうか。

そもそも「成果を出していればいいじゃん」とは、どういう意味なのでしょうか?

 

成果を出していれば、所定労働時間分を働かなくてもいいのでは?

例えば、所定労働時間160時間に対して、140時間でも成果が出ていれば、その20時間の不足は問題ないのでは、という意図なのかもしれません。

この「問題ないのでは」をより具体化すると、「20時間の不足があったとしても給料から控除しなくてもいいのでは?だって期待される成果を残しているのだから」となります。

確かに「成果」にフォーカスして給料が支払われているのであれば、問題ないのかもしれませんが、論理的に考えると、そうではないと思います。

基本的に、会社員は「成果」ではなく、「時間」に対して給料が支払われているからです。

 

年収は、その人に対する期待値

年収が500万の方は、おおよそ500万程度の期待をかけられ、その成果を求められます。

1000万であれば、期待値が高まるでしょう。

その年収を毎月の基本給として支払っていくのですが、支払いの根拠になるのは所定労働時間です。

160という「時間」を投じることで、給料が支払われるのです。

正直、そこに成果は関係ありません。

成果ゼロでも、時間を投下すれば、毎月の給料が支払われるからです。

約束していた時間を超えれば超過勤務として残業代が出ます。

これも成果とは関係ありません。

 

成果は、どのように反映されるのか。

月次単位などのインセンティブを除いて考えます。

多くのケースでは、6ヶ月の評価期間を定めて成果やパフォーマンス、行動を評価します。

その結果が昇給や賞与に反映されます。

昇給は、翌期の期待値が多少増加することを意味します。

 

上記は評価制度の文脈であり、等級制度の文脈である「等級判定」の結果、昇格すれば翌期以降の期待値が大幅に増加します。

ここで年収も大幅アップです。

ただし、年収が上がることを期待値が上がるだけであり、支払いまでは約束されていません。

支払いは、時間を投下することで成立します。

 

ちなみに本来は、期待される成果が出なければ翌期以降の期待を下げる、つまり給料年収を下げることをしないと整合性が取れないのですが、なぜか日本では「期待値(給料)を下げないで」という謎のルール(法)があるので、期待値と給料のバランスが崩れています。

そもそも期待値を設定したり、成果を測定・評価して給料に反映することが難しい、という判断なのかもしれません。

だから、その説明が最も簡単な年齢、つまり時間という尺度に置き換えているのでしょう。

年功序列とは、つまり時間を主にした制度設計という意味です。

 

「成果を出せばいいじゃん」にするには、、、

期末の評価結果を踏まえて、もし不足時間とその控除があれば、その控除分を補填する制度があれば、成果を出せばいいじゃん、ということになりそうです。

もし、成果も出ていなければ補填分はありません。

働く時間を自らの裁量で決めながら、期待される成果を出していく。

これが本当の意味での裁量労働であり、成果主義なのかもしれません。

ただ、社員からすると「時間」を投下すれば給料が約束される環境の方が望ましいようにも思えます。

ローリスク・ミドルリターンなので。

一方、会社からすると「期待値の設定」が肝になり、ここがズレると問題が起きがちだし、短い時間で期待を満たしたら「もっと上を目指そう」と欲深くなりたいだろうから、この成果主義もメリットが薄いかもしれません。

 

いろいろと考えてみると「成果を出していればいいじゃん」って言葉は、的を得ていないと思いました。

社員のためにも、会社のためにも有益にならない、それっぽい言葉なのでは、という理解です。

「成果を出していればいいじゃん」とは、「誰のため」を思いやった言葉なのでしょうか。

正論に聞こえがちだけど、実は中身のない言葉なのかもしれません。

 

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